多摩美での佐野研二郎さんの葬儀的な催しについて思ったこと


リオオリンピックが終わって、東京オリンピックのエンブレムが定着してきているというか優等生的な感じで静かに席に座っている感じ(オリンピックのロゴがズレてパラリンピックのロゴになる!というのに「オオオ!」って感じがしたけど、よく考えると「で?」という感じと小難しいという気持ちが残ったことすらも忘れてしまっているくらい落ち着いている)の今日この頃。

11月6日、多摩美の学園祭での写真がTwitterで放たれ燃えている。それは佐野研二郎さんの葬儀的な催しを複数の学生がしている様子の写真である。

 

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多摩美の卒業生であり、多摩美の教授でもある佐野研二郎さんに対して、死んだような表現はブラックジョークのレベルを超えて大丈夫か?と思うけど、佐野研二郎さん、というか佐野研二郎教授への許可を生徒はとっていたかもしれないし、、加えて「ここは撮影禁止なので!」としていたかもしれないし、、、と思ったけど、30歳の僕の古い思考のなかでは、「燃えよな」と思うわけだ。しかししかし教授想いの学生が教授の炎上を自らの炎上に替えて沈静化させるということも考えられるが、それはそれは「普段どんな教育をしているんだ、多摩美は」と佐野研二郎教授の範囲を超えて多摩美の大学教育という割と大きな話までいってしまう、つまりはこの葬儀的な催しに対して良い効果は考えられない。

でも催しをしている学生は多分「面白い」と思って展開したのだろう。
一部の記事で彼らを「バカッター」と呼んでいるが、確実に炎上するであろうことを炎上すると想像できず実行しそれをTwitterにあげるユーザーのことをバカッターと呼ぶと思っていて、催しを行なっている人自らがあげているわけではないからバカッターではないと僕は思う。
そんな細かい話は置いておいて。催しを行なった多摩美の学生は炎上するとは想像できず「面白い」と思って展開したのだろう。

Twitterを見ていると何が面白くて拡散しているのかわからないものが稀にある。ただそのツイートに数字が更に増えていくと世の中的に面白いものとしていながら徐々に自分のなかでも面白いものとして処理され後付けで人様にこの面白さを説明してしまったりもしているくらい、僕の中で「面白さ」というのがグラグラしているというか、そもそも面白さなんてないものすらも面白いものにしている自分の無さを見て見ぬ振りをしながら日々をやり過ごしている。面白さという主観がなくなって、誰かの意見ならまだマシだが数字に面白さが説明される。今そんな時代な気がしていてその結果、今回のようなことが起きたのかなと。拡散すること=面白い、単純な方程式であり、面白いの周りの変数なんか見えてなくバカッターと同じであるが。

「この学生たちは想像力のないバカだ」という意見が多くあるようにネットを見渡すと思えるし自分もそう思ってしまった1人であるが、この学生たちにとってはマスメディアでまつられた佐野研二郎教授の世の中的なイメージ、はっきりいうと佐野研二郎教授への社会的ないじめの延長線上で今日のこの葬儀的な催しを発想したとも思えるわけで、彼ら学生たちを頭ごなしに怒るというのも難しいだろう。

何が面白いのか、面白くないのか。
何が良いのか、悪いのか。

最近、本当にわからない。


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