高校野球でフルに感動するために甲子園に行ってきた


8月15日(土)、全国高等学校野球選手権大会の第10日に、母校(大学)の付属高校である早稲田実業と、出身地である神奈川県の代表高校である東海大相模の応援を兼ねて甲子園に向かった、というのは言い訳で、というかたまたまで、NHKの中継や夜の熱闘甲子園を見ていて、雰囲気で心がもっていかれるというか、秒で感動してしまっている自分がいて、これまでそんな症状が全くなかったので「歳か?」と疑っているのだけど、別に悪いことではないので、放置しつつ、感動を誘う甲子園に実際に行って、テレビを超えた感動を味わえたらと思って、前々から予定していた。

 

高校野球(甲子園)をテレビで見る理由
今、29歳で歳を重ねるごとに高校野球への関心度が高くなっている気がする。この時期になると朝8時にNHKをまわし、「高校野球 速報」などのテキストリンクがあると思わずクリックしてしまう。別に野球が好きなわけではないし、そもそもスポーツが特段好きなわけではないが、何となく、高校野球が気になっている、そんな感じであるが、多分きっと考えられる理由は以下の通りなのだろう。
1.自分の青春時代をデコる
僕には、甲子園で優勝に向かっている彼らと同じ高校時代が体としてはあった。高校を卒業してから10年経つ今、思い出そうとすると、「あれは夢であったような」と、そこに非現実性が帯びていて、本当にあったことか、また本当にそこにあの人は存在したのかさえも自信がないくらいになっているのだが、自信がない高校時代は何気ないことの連続であるのだが、自転車を漕いで通学するシーンでさえも確実にキラキラしていて眩しいくらい。そんなキラキラに、さらにキラキラしている高校野球を混ぜ込んで、改めて自分自身の高校時代を振り返りたいと、そんな気持ちがあるように思うし、都合よくより良い過去として高校時代を自分に仕舞うために、最高レベルで輝きに満ちた高校野球をフックにしているようにも思う。
2.自分にない素直さ(悔しい方向)に触れたい
別に母校がとか、出身県の代表高校とか、高校野球に対する感動に極論関係ない気がしている。そして、勝利チームよりも敗北したチームの方に意識がいく。散々つらい練習を繰り返し、全ては全戦全勝を目標に戦ってきたのに、その目標が一敗で崩れ去る。少なからず誰かの失敗が相手の追加点を促したことは振り返れば明確で、その失敗した選手のあの時の自分を悔いる気持ちが試合後の帽子で隠された顔には全面的に表されているのだろうと、そんな気持ちで、負けた高校の選手を見てしまう。何かに真っ直ぐに向かう、なのに失敗し、先が絶たれるということを、自分にもありそうなシーンに一旦置き換えて考えてみながら、「あんなに素直に自分はなれるのか」と自問し、「いやもうなれない」と萎えた自分の気持ちを卑下し、体験できない、手が届かなくなったからこそ、素直さによるキラキラした輝きに触れてみたいと思うのだと思う。そしてその輝きに触れた瞬間に心が奪われる。
甲子園に行って感じた空気
テレビで高校野球を見ていてもそれなりに感じるものはあるのだが、何となく30歳の前には高校野球を生で見たいと思っていて、生で見て、テレビで感じられないようなものを感じたい、見たいと思って、甲子園球場一塁側アルプススタンドの席に、高校の応援団に混じって座っていた。僕の周りには、出場選手の父母、OBOG、学校の応援団、野球部員などがいて、それはそれは一生懸命出場選手を応援していた。第1試合の早稲田実業と東海大甲府の試合から最終の第4試合の作新学院と九州国際大付属との試合まで全て見た(おかげで今ものすごく日焼けで肌が痛い…)。そして、一塁アルプス側のチームが奇跡的に全て負けた。
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全てのチームに共通していたことがあって、それはものすごく意外なことであったのだけど、応援していた方々の大多数が、負けた瞬間、そんなに悔しそうではなかったということだ。プロ野球の試合では、応援しているチームが負けたら、「おい!なにやってんだ!」と罵倒する、それが全くないのだ、きっとそれが応援団の選手との関係の近さを表しているのだろう、「例え、世界のみんながあなたを敵に回しても、私だけはあなたの味方でいたい」そんな空気で、しかもそれが一塁側アルプススタンドのマジョリティーであるから、不思議な感覚であった。
負けが確定した時、出場選手の父母、OBOG、学校の学生、野球部員、泣いている人も勿論いたけど、多くは泣いていず、「相手が強かった、しょうがない」というより「ここまで、よくやった」と褒めているように見えた。
僕のような甲子園出場選手に関係のない人にとっては、彼らは輝かしい甲子園球児であり、その試合で負けた高校の学生なのだけど、応援している人にとっては、子供であり、後輩であり、クラスメイトであり、チームメイトであり、予選、いやそれより前の試合や、練習…もっと昔の小学時代の頃から甲子園出場選手を見守ってきていたのかもしれない。昔からの練習、試合の連続の先に今日の負けた試合があり、それは甲子園の舞台という特別なものかもしれないけど、その特別な舞台に登れたことを改めて褒めているようなそんな表情で、負けて涙を流す選手が一塁側スタンドに向かって挨拶するのを直で見つめていたように見えた。
「甲子園に連れてきてくれて、ありがとう」
きっとそんな気持ちだったのだろう。
テレビで見ていると、涙にフォーカスされ、負けたチームのただ悔しい気持ちが強く伝わってくるが、甲子園では違った。確かに悔しさは8回、9回あたりで少し流れ始めるが、最後の攻撃2アウトの時には、諦めとは違った選手を受け入れる姿勢が応援スタンドには統一して用意されているように思った。これは感謝の空気なのだろうか。
そんなスタンドに拡がる優しい空気は地上波にはのらないだろう。
甲子園球場では下の名前で選手を認識する
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試合中に、点数などが載る巨大ビジョンには、試合出場中の選手の苗字が載る。アルプス席の応援ゾーンではバッターとなった選手の下の名前が載ったパネルが観客に向けられ、そのバッターにちなんだ、もしくはローテーションされた応援曲にその名前がのせられ、甲子園の空に放たれる。回を増すごとに、パネルが出る時間が短くなる、それは応援ゾーンにいる人が下の名前を覚え出し、バッターに変わる最初のタイミングからのっていけるように成長している証拠であり、またパネルをあげている人の、自分も大声を出してより大きい声で応援したいという気持ちの表れでもあると思う。試合出場中選手の下の名前を叫ぶとより彼らを愛おしくなり、選手が高校生であることを改めて気付かされる。何かに向かう直向きな姿勢や素直さ、色々と見直すきっかけをくれる彼らは高校生。なんて、すごい高校生だろう、今、日本中の多くの人に元気を与えているのは、間違いなく彼ら。それを“若さ”や“未完成”で片付けるのは何か、違うと思って、試合を見ながら考えていたら、いつの間にか試合が終わって、アルプススタンドでは高校の入れ替わりが行われていた。
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試合が終わったのに、パネルがあげられていた。「次の高校が気持ちよく応援できるようにゴミの持ち帰りにご協力をお願いします」とあった。何となく、このパネルに答えがあるように思った。“無償の奉仕”“思いやり”なのだ。高校野球を見る時、誰かが誰かを見つめている姿が多くあるように思う。そこには敬意があり、優しさがあり、心配•期待がある。誰かに向いたそのベクトルは、部を超えて親や友達やOBOGにも拡がっていることが甲子園球場にいてよくわかった、ただ試合中のつくられたものではなく、また内向きのものではなく、きちんと外向きにも拡がっていた。高校野球というのは、人をつくっているんだと思った。もう29だし、周りは子供ができた人も多い。自分に子供ができたら、野球をやってもらいたいな、と思った。
この作業にはどれだけの価値(自分にとって)があるかを考えて、一日の行動を選ぶ。何となく、そこにムズムズしていて、限界を感じていて、そのムズムズが爆発するような感覚があった。今の自分は何か間違っている。

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