本を出す事とインターネット上に記事を公開する事と元少年A著「絶歌 神戸連続児童殺傷事件」を読んだ感想


神戸連続児童殺傷事件が起こったのは、1997年。僕は11歳か、小学生だったのだが、学校の校門に人の頭を置いた、というそのやり方に小学生ながらに衝撃を受け、「酒鬼薔薇聖斗」とあった怪文書がその当時見ていた金田一少年の事件簿と重なりテレビドラマを見ているような感じで、最新情報をどこか求めていた記憶があり、今でもその事件のことは覚えている。今年、たくさんの人が奇妙な殺され方をしたが、すぐに思い出せるものはないのだが、この事件だけはすぐに思い出せる。親戚のおばさんが「犯人の顔が週刊誌に載っているみたい」と興奮気味に話しをしていた記憶もある。僕は犯人の顔には興味はないが、彼がどんな文章を書くのかはとても気になっていた。大人を馬鹿にするような怪文書を見た時、この人は書く事が好きなんだ、と思った。だから、朝、流れてきたテレビニュースで「あの少年Aが、本を出版した」と紹介された時、単純に気になって、発売された週の土曜日に本を買おうといつもの新宿の紀伊国屋書店に行くも、売り切れ…新宿のブックファーストに電話し、在庫確認をして、「ある」とのことで、新宿西口まで移動し、購入に至った。

割と盲目的に、彼の文章を読みたいという気持ちで、動いていたので「本を出版」という部分には、特に何も考えていなかったが、「本を出版」したことによって、色々と余計なことが、この少年Aが書いた絶歌に対して、いや当然の如く本にだけでなく、少年A自身にも出版社などに対しても言われてしまっている。

  • 印税欲しさか
  • 金に困っているのか
  • 本を出版するなんて、被害者遺族の気持ちを無視するのか
  • 出版社は金欲しさに何でもするのか
  • 誰が仕掛けたんだ
  • なぜ出版するまで被害者遺族に何も連絡しないのか
  • 事件を起こした事に対して反省をしているのか
  • この本に読む価値はない
  • (有名人が)私は買わない

こんな感じだろうか。こういう意見に触れた時に思ったのは、ただ文章を書きたいんだったら、もっているパソコンのワード系のソフトに気持ちをテキストに変換して書けば良いのではないか、あくまでそれは誰に見せるものでなく、個人的に残すものとしてではダメだったのか、誰かにありのままの自分の気持ちを知って欲しいのではあれば、出版社という編集の濾過装置を持たず、ダイレクトに気持ちをテキストに変換して発信できるインターネット上で公開するやり方もあったのでは、と思うわけだ。

本を出す事

売れると思うから出版社は本を出す。そしてより多く売れるように、作者の原稿を修正していく。作者に対して、世の中的にどういう“いやらしい”目が向けられるか。儲けるため、有名になるため、そういうことだろう。本を出せない一般の人たちの羨ましいという眼差しもあるかもしれないが、それがなくても、一般では馴染みが薄い「印税」という言葉も、なぜか世の中に浸透し、創り出す苦悩を無視して、ただただ憧れとして存在しているように思う。この“本を出す事”を、少年Aは、自分が起こした凶悪事件をネタに果たす。絶歌を読むとわかるが、少年Aは困窮していることが想像できて、大金をもらうためか、とも想像することができるし、少年院から出たところを含め本の所々から垣間見れる、人に対する危険な突発的な行動より、「少年Aを忘れるなよ」というような存在を示す謝罪の気持ちに隠れた叫びにも読むことができてしまう。そのすべてが、「自分の犯した罪をネタにするな」というところに僕は収束するのだけど、ネタにした先が数千万円の利益となると「お前…」となるのもわかる。だから、儲けるためなら「儲けるために書いた」。有名になりたいのであれば「有名になりたいから書いた」。で、もう出版してしまったのだから、その点も正直に出すべきだと思った。少年Aは「事件のことを書きたい」と書いた。書くだけなら、自分だけに留めることもできるし、本を出すことよりも儲かるイメージがないインターネットでの記事展開も考えられたはずだ。

「絶歌 神戸連続児童殺傷事件」を読んで思った事

  
彼は、書くことが本当に好きなんだと思う。何を書くか、それは自分がやっていることだ。彼に関することは、小学時代の僕がニュースを通じてもった彼に対する印象とこの本を読んだ印象でしかない、勝手な解釈である。自分が手にかけた事・表現をできるだけたくさんの人に見てほしい、そういう気持ちが新聞社に送った怪文書に表れていると思った。そして、この出版に対しても思った。前項で、金儲けのためか、「少年Aを忘れるなよ」と自分の存在を示すためか、と書いたが、僕は何となくだが、単純に「僕が書いた表現を見てほしい」という気持ちが強く伝わってきた。14歳で少年Aは逮捕された。中学2年生くらいか。「勉強はできなかった」と本には書いてあるが、また誰かのWEB記事では「パクリの連続」と書いてあったが、文章の表現は凄く勉強している人のモノだと思った。独房で本を読み漁った等々のエピソードはあったが、少年院での教育に関することはないが、しっかり勉強していたかのような内容だったし、本としての構成も凄く戦略的だと思った(会社の後輩として中国人が来た時に、その中国人に自分の弟を重ねる、という部分は、基本的に時系列で書かれた絶歌の中で、少年院の話は中盤に来るはずなのに、終盤に持ってきていた点)。

この本は、

  • 逮捕前、犯行
  • 少年院での生活
  • 社会人になる

大きく、この3つの内容で構成させる。この3つで、書き方が大きく異なるように思えた。逮捕前、犯行部分は、手記というより小説的で、比喩表現が大量に出てくる、一部、暴力的な行為が肯定されたような、また幻想的に表されていた記憶があるくらいで、自分が起こした事件を、物凄く俯瞰していたような、違和感というか、気持ち悪さが前半に続いた。少年院の生活や社会人になってからの話にいくと、その比喩表現は無くなったように思えた。ただ、自分が過ごした環境とその時の気持ちが書かれていたように思う。しかし、残りのページが少なくなるとまた比喩表現が出てくるようになった。自分の文章の書くスキルを示すかのように、余韻を残すというか、何かを読者に想像させるような小説的な書き方が増え、そのまま終わる。その比喩表現の波に酔い、その波が来ると、その客観的な描写に恐怖を感じた。狙いがあるのか、狙いがあるのなら、何の狙いがあるのか、それがとても知りたいと思った。

  
 所々、想像できない奇妙な行動、描写表現があった。そのページを折り曲げた。

人を殺してしまった人は何も表現できないのか

もし彼が本当に更生し、昔のように人を痛めつける事をしなくなっていたとしたら、また、彼が本当にこのままずっと書く事を続けて行きたいと考えているとしたら、どうだろう。人を殺してしまった人は、静かに暮らさないといけないのか、もし僕が被害者遺族だったら「ふざけんな、つつしめ」と思うだろう、今、関係ない立場にいるから自由に発想しているのだろう。人を殺した人しかわからない事はあるし、そこから見える景色や表現は多分あるんだろう、量という面で、それらは貴重なものであるが、当然誰かを傷付ける、その天秤をどう調整するのか、今回の絶歌の出版で考えないといけないと思った。出版の裏で何があったかわからないが、出版されてしまった以上、出版された世界が始まった。これによって被害者遺族は苦しんだ。書いた元少年Aは何を思い、今何を見ているのか、Twitterのアカウントは当然あって、検索窓に「少年A」と入れて、エゴサーチをきっとしているだろう。

絶歌が出された以上、僕は少年Aに事件の事以外で書く事を続けて欲しいと思う。儲けることは、確かに生活にはとても必要なことだと思うけど、この件については、ノイズが増えるから、広告が貼られていない、自分に広告費が入らない状態のサイトでテキストで発信してほしい。何を見て何を思ったか、もうここまで絶歌で書いたのだから、嘘なしで書き続けて欲しい。そしてもう誰も傷をつけないで欲しい。


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